ワーキングプアへの給付

消費税をあげる代わりに「貧困層に還付する」という案があるらしいが、それでは足りない。還付では最大でも「取った分を返す」ことにしかならないからだ。
ワーキングプアの定義は国によって違うらしいが、日本の定義によるワーキングプア率は全世帯の19%らしい。
また、ワーキングプアとは違うかもしれないが年収200万円以下の層が勤労者の24%を占めるということだ。数にすると1100万人。これについてはフルタイム労働者かどうかを明らかにした数字が知りたいところで、アルバイターなら労働時間が短ければ収入が低くても当然だからだ。問題になるのは「フルタイムで働いているのに貧困」である人々だ。
フルタイムで働いているのに年収が200万円なら、月収は16万円程度である。これはかなり苦しいが一人暮らしなら生きていくことは出来る。ただし、単に生存する以外の展望はまるで持てない。
「貧困線」についても様々な定義があるらしいが、日本では「年間の手取り127万円」というものがあるらしい。これはあまりにも絞り込んだ見方のように思われる。これは月収10万円ということであり、実家ぐらしでなければまともな生活ができない。貧困の定義をここまで下げるのには問題がある。何故なら「貧困線に到達しない限りは貧困ではない。」という考えが出てきてしまうからだ。
フルタイムで働いても年収が200万円以下にしかならない人々に対しては「徴税するが還付」などというレベルではなく「徴税せずに給付」するべきだと思う。減税ですら意味が薄い。もともと収入の低い人達に減税しても増える収入は微々たるものだからだ。
日本のような自由な社会でこのような社会主義的な、ある種不公平な、生ぬるい政策を行うことには多くの国民が反対するだろうからまず実現は不可能だろうが、この提案をするのには幾つか理由がある。

  1. 消費を増やして景気を刺激する。金持ちが高い収入を得続けても日本の場合は景気を刺激するほどには消費しない。だらだらと貯めこまれて格差だけが開いていく。しかし、年収200万円以下の1100万人の人々は消費したくてもできない状態なのだから、単に生きていく以外の目的で消費するだけのお金を渡せば継続的に消費するだろう。これは企業の側から見れば「お金を落とすお客さんが増える。」ということであり、それはつまりワーキングプアでない普通の勤労者にとっては「自分の会社の業績が上向く」という意味である。また企業は「最低賃金を上げる」とか「正社員化を強制される」という政策を回避できる。こんなことを書くと「非正規雇用の常態化を招く」という批判もあるだろうが、最低賃金を上げさせる・正規雇用を強制するという政策を企業に強要するとますます採用を絞った上に正規社員の労働環境が悪くなるという事態を招く。つまり、ワーキングプアから徴税せずに逆に給付するならワーキングプア自身が勿論助かるし、企業の業績は上向くし、雇用の忌避が避けれられるし、正規社員の労働環境も守られるということになる。
  2. 労働することを奨励する。「働いても貧困」という状況は、「働かずに貧困の方がマシ」という発想を生む。働かずに生活をするための給付を得る方向に傾いて財政に負担をかけることになる。また、「地獄のような労働をしても貧困でしかないならニートとなって問題を先送りする」という考え方をも生みやすい。これは将来のある時期から非常に大きな社会問題となって立ち現れる。何十万人ものニートがある時期に両親を失って収入源をなくした場合、まさか放置することはできないだろうから、結局は生活保護で巨大な財政負担を生じさせながら養うことになる。そんな状態になるくらいなら、「どんな職業についてどんな低収入の境遇に陥ろうとも絶望するどころかほどほどに楽しみながら生きていくことが保証される。働いている限り。」という仕組みにする方が「ある種不公平」であってもワーキングプアの勤労意欲は削がれず、財政負担も長い目で見れば軽減されるだろう。それに「低所得層に給付して消費してもらい、景気を刺激する」面も考え合わせるなら、雇用環境自体が改善されるのでやはり財政負担を軽減する作用があるだろう。
  3. 給付は期限付きの金券とする。普通のお金を給付してしまうとワーキングプアの中でも堅実な人々は貯金してしまうだろうから、給付はたとえば「6ヶ月以内に消費する」ことを義務付ける金券とする。使う対象は全く自由とし、これまた批判的に見られるであろうがどんなに「下らない」目的でもそれがその人の満足感なり実用価値なりがあるなら制限しない。制限しないで消費してもらうことが景気への刺激になるからだ。もし「享楽的・奢侈な目的に消費するのは『道徳的』でないからダメだ。」としてしまうなら、享楽や奢侈を提供している企業はこの政策の恩恵を受けられなくなってしまう。大体において経済を成り立たせている産業の多くは別に道徳的なものではない。社会的弱者にだけ道徳を強要するべきではないと考える。